Twitterを使いはじめてから7年も経った

最初のツイートはこんなだった。

 

携帯より。昼食をとりながら、印刷機を監視。デイリーポータルZで食品サンプル工場。ライター陣では小野法師丸さんがお気に入り。
— 2010年7月29日 12:22

  

 

使いかたもよく知らないままにユーザー登録して、とりあえず呟いてみたのがちょうど7年前。誰もフォローせず誰にもフォローされていない状態だったので、虚空にむかって発したtweetはひとりごと以上でも以下でもない、純なつぶやきであった。

 

当時使っていたガラケーからログインしている・昼休みに弁当を食べながらぽちぽち入力している・事務所の印刷機が動いているので(長モノを出力していた)いちおうその様子を見ている・昼休みのネットのお供はデイリーポータルZ(その日読んでいた食品サンプル工場の記事小野法師丸さんの記事)……。7年経った今も、お昼休みはだいたいこんな感じで過ごしている。そう考えると、7年はあっという間だった。

 

使いはじめたはいいものの、何をつぶやけばよいものやらよく分からず、今何をしているかを記録するメモとして利用しつづけて、なんやかやで丸々7年間、ほぼ毎日Twitterを使っている。飽きっぽいボクの性格からすると、ずいぶん長いあいだ同じことをやり続けている。考えかたや発信する方法が、自分の生活のリズムにちょうど合っているのだと思う。

 

たくさんの人をフォローして流れゆくタイムラインに一喜一憂したり・未曾有の大震災のさなかにリアルタイムで寄せられる情報ツイートに救われたり・日本語ハッシュタグや画像添付機能を自由に使えるようになって大喜利ネタを楽しんだり・お勧めされる展覧会や書籍や映画やテレビ番組をかたっぱしからチェックして見聞を広めたり・時事ニュースを一方向からではなく多面的に眺める習慣を訓練したり。新しい概念や見識にめぐりあわせてもらったことも幾度もあった。喪われていた人間関係が修復したこともあった。リアル(現実)で崩壊していた人間関係がネットを通じて復活するというのは、とても感動的なできごとであった。

 

これまでTwitterとたくさんの人のつぶやきにずいぶんお世話になった。とても感謝している。

 

こんなに積極的に使っているTwitterではあるが、2年ほど前からはまた誰もフォローしない状態に戻って、ずっと虚空に向かってつぶやくスタイルになっている。いわゆるSNS疲れにやられてしまってこのままでは良い影響が出ないと判断したので、100〜500アカウントくらいフォローしていたすべてを解除させてもらったのだ。

 

お別れはブロックで……、などという奇妙なルールを信奉するものではなかったが、誰もフォローしていない自分がたくさんの人からフォローされている歪(いびつ)な状態が不自然に感じられて落ち着かなくなったので、その時ボクをフォローしてくれていた100ほどのアカウントもすべてブロックして(フォローがはずれたあとですぐブロック解除して)誰からもフォローされていない状態に戻させてもらった。F/F=0/0。

 

タイムラインを持たない状態でTwitterを利用するのが邪道であることはよく心得ている。しかし、自分に合うより良い利用方法を模索した結果、このような形がいちばん適しているという結論に至った。

 

もともと自分はフォローされたい欲が薄かった。たくさんの人がどんなことを考えていてつぶやいているのかを眺めるのはとても好きだが、自分が日常どんなことを考えているのかをつぶさに眺められることについては抵抗があった。

 

読み手を意識するとどうしても言葉を飾ったり、文章をこねくりまわしたり、果ては意図していたことと真逆の結論へと落ちつこうとしてしまったりする。より良い人に見られたい欲が邪魔をする。リハーサルを重ねて、準備を整えて、万全に備え、身構えた状態で私見を開陳するならば覚悟も定まっているのだが、ツイートというものの性質上、あまり深い考察も推敲もしない状態でのつぶやきが多くなる。

 

そういう雑なシロモノを読まれ、時には深読みされ、なんらかの形で読んだ相手が影響を受けてしまったとしたら、それはとても申し訳ない。こっちにはたいした意図も意味もないと思っているのに、受け手が同意なり共感という形で動かれてしまうと、なんだかとても困ってしまうのだ。

 

特に、Twitterのリプライ(やエアリプ)で「分かる!」と返事をされてしまうと、ボクはとても困る。誰かが誰かの考え方について分かるはずがないだろう!と反射的に思ってしまう。Twitterは同意と共感のつながりをもって各人が相手をフォローする関係を作り上げている。簡単に表面にあらわすことができる浅薄な同意や共感をまったく信じていない自分からすると、この渦中に身を置きつづける状態はたいへんキツい。

 

同意や共感が悪いことだと言っているのではない。同意や共感は表にあらわすことで満足してしまってはいけないものだと思うのだ。

 

そもそもTwitterは同意と共感を強いてくるツールだ。油断するとタイムラインに影響を受けて、思考はどんどん歪められ、自分の頭の中を離れてゆき、やがて自力ではなにひとつ考えることをしないようになる。言語で思考することについて手を抜こうとする。脳を使わなくなる。なんでもかんでも「分かる!」で済ましてしまおうとする。これが怖い。

 

何か大きな問題がある。悩みがある。事件がある。それに対する考え方がある。意見がある。思想がある。いうまでもなく考えるのは自分自身だ。何をどう考えるかは自由だ。しかしそこで誰かの意見に「分かる!」と反応してしまったら、その時点で自力で考えることを止めてしまっていないだろうか。分かると同意や共感を示す行為をしたことで満足してしまって、その後の熟考をサボってはいないだろうか……。

 

分かる人は分かるんだから「分かる!」と言うだろうし、それも当然だ。ボクはそもそも分からないから「分かる!」とは言わないし、万が一分かってしまったとしてもそれが本当に分かっているのか自分を疑わしく感じることを止めない。だから「分かる!」などと即応することはない。それだけのことだ。熱く語るほどのことじゃない。

 

いわゆるSNS疲れの症例として、このような自分の反応が該当するのかどうかは知らないが、楽しくTwitterを使っていたつもりが心労が積もるようになってしまったのだから、SNS疲れと称してもいいだろう。疲れて嫌になってしまうのなら止めればいい。でも止めるには惜しい利点も多い。さまざま検討した上での選択が、誰もフォローしない/フォローされない状態でいる、というものだった。

 

……ついつい重く書いてしまった。

 

タイムラインというものの魅力は、それぞれ無関係なつぶやきが時間軸に沿ってランダムに雑にどんどん勝手にとびこんでくるところだ。無秩序で質の揃っていないつぶやきが互いに作用しあい、効果を及ぼしあい、思いもかけない意味を産み出す。人力による自動筆記。意図と意図をつむぐオートマティスム

 

ひとつひとつのツイートは高々140文字に満たない短文だけれど、寄り集まると新たな意味が生まれる。タイムラインを形作るのは、誰をフォローして誰をミュートするかを決める自分自身による選択なので、アカウントの数だけ別々のタイムラインが存在し、そこで別々の意味が産み出されている。無数に、無限に、無闇に。このダイナミズム、この魅力的な世界!

 

ボクが誰もフォローしないでTwitterを使うようになっているのは、引きこもって地面に掘った穴に向かって誰にも聞こえないように陰口をつぶやきたいからではない。自分のアカウントに鍵を掛けて閉じた空間でつぶやきたいのならばミクシーでも使えばいい(使ったことないけど)。でもそういうことをやりたいわけでも、そうすることに意味を感じているわけでもない。ただただ無駄な軋轢を減じ、お互いにストレスを抱かずに生きてゆければいいよねと思っているだけのことだ。

 

誰もフォローしないけれどタイムラインは保持したい。そう思ったのでTwitterのリスト機能を使うことにした。非公開リストを作成し、フォローしたいと思ったアカウントをそのリストに追加してゆく。リストに追加した(=擬似的にフォローした)ことは当該アカウントには伝わらない。リストを眺めると、通常のタイムラインとほぼ同一の流れで疑似タイムラインを閲覧することが出来る。

 

リストによる疑似タイムラインでは表示されないのは、プロモーションツイートと、ツイッターからのおすすめとかハイライトとか○○さんがいいねしましたとか、そういうの。夾雑物が表示されないタイムライン、つまり原初のホーム画面にかなり近い状態なのである!

Twitterを使って7年が経過した。8年めもまだしばらく使い続ける。さらにその先どうするかは分からないけど、できればあまり疲れることはしたくないなと思う。

だからまだもうちょっとだけ、自分なりのワガママなスタイルで使わせてもらえませんか。なるべく誰にも迷惑をかけないようにしたいんで。