関西弁をしゃべれなくなった日
幼いころ、東京に住むいとこのところに遊びに行った。サンシャイン60が建ったばかりで、みんなで日本一高い展望台に登った。大はしゃぎした。
東京には1週間ほどいただろうか。新幹線に乗って両親の待つ家へ帰り、楽しかった思い出話をしゃべっていたら、父と母がクスクス笑いだした。いっしょに旅から帰ってきた兄も、ボクの滑稽さに気づいたらしい。
「どうしたの? なにが面白いの?」
「それや! その言葉が変なんや!」
指をさして返された。しかし、言葉が変とはどういう意味なのか、さっぱりわからなかったのである。
東京はよく怪獣に破壊されていた。ボクはウルトラマンで東京を知った。あまりにもひんぱんに怪獣が東京に現れるのを不思議に思って、兄に訊いたことがある。
「なんでいっつも怪獣は東京に出るん?」
「そら、日本のシュトやからや!」
シュトとは何かとたずねると、日本の中心だという。そうか、東京はシュトか。でもウチの近くの大きな街に京都があるぞ。トーキョーとキョート、ちょーど反対やなぁ。
日本がどれくらい広いのかも知らない。
地方によって言葉が違うことも知らない。
怪獣は東京に出るから京都は破壊されない。
自分が訛っているなんて思いもしない。
いちばんおもろいテレビは吉本新喜劇。
なんで東京でいっぺん見たアニメが、こっちで2ヶ月も遅れて放映されたのか、わけわからん。
東京のテレビに関西弁を持ちこんだのは明石家さんまだと言われている。本当かどうかは知らない。ボクらが子供のころはもうさんまちゃんは『ひょうきん族』に出ていたし、一方で『さんまの駐在さん』という舞台喜劇も放映されていた。どちらかが東京で、もう一方が大阪ローカルだなんて考えもしなかった。世界のどこにいっても自分のしゃべっている言葉が通じると信じていたのだから。
両親や兄が笑ったのは、生まれてからこれまでずっと関西弁だけしゃべっていたチビが、たった1週間いとこと過ごしただけであっという間に影響されて、すらすらと標準語を話すようになっていたからである。
「そやな!」「なんでや!」「あかんで!」だったのが、「そうだね」「どうして」「ダメだよ」と口にして澄ましているのだから、それはとても珍妙だったことだろう。
残念ながら、付け焼き刃の東京訛りは数日で消え、ボクはまたこれまでと同じように関西弁をしゃべるようになる。子供というのは柔軟である。自由なんである。
それから20年ほど経って、ボクは就職で東京に出てきた。面接やら配属やら研修やらを経て、すっかり丁寧に話す習慣が身についていた。丁寧に、というのはつまり「標準語で話すことができるようになっていた」という意味である。
自分を取り囲む環境の圧が言葉をかしこまったモノに矯正し、それが自然になるように均されてゆく。すべては無意識のうちに切り替えが済み、それを苦に感じることはなかった。自然なんである。
営業の仕事に就てしばらく経ち、職場の上司とも打ち解けはじめてきたころのことだ。仕事はけっして楽ではなかったが、ボクは酒も強かったし、太鼓持ちも演じられたし、わりと重宝されていた。夜の酒の席に連れ出されることも多かった。
初秋の頃、金曜の夜。
上司をぞろぞろと引き連れてお客さんの幹部を接待するかしこまった一次会。お客さんの担当者と営業の担当者が腹を割って話す雑駁な二次会。
そのどちらの会でも、若手でぺーぺーのボクは酒を注いで回る役であり、注文を切らさないように立ち回る小坊主を務めていた。
乾杯で口をつけた酒を請われるままに空けて返盃をうけるのと、大皿に余ったサラダの残りを綺麗に片付けて下げてもらえるように整えるだけ。つまり、ほとんどなにもまともに口に入れない宴席で、4時間ほど仕事をしていた。
三次会は地下のスナックで、乾き物と酒しか出ない。最後のひとりのお客さんの担当者をしたこま飲ませて、抱え上げるようにして階段を登り、タクシーに乗せ、頭を深々とさげて見送ったところで、時刻はてっぺんを越えていた。
バブルの残滓がまだ微かに残っていたころだ。甲州街道は明るく照らされていた。最後まで見届けたボクと10ほど歳上の主任さんのふたりは、大役を終えてようやくほっと息をついた。もう気兼ねすることはない。開放的な気分で、ふたりでシメの四次会に行くことにした。多少の差はあれど、夜の宴席があればいつもこの流れになる。
黄色の地に赤く店名が染め抜かれたのれんをくぐり、カウンター席が10ほど並ぶ小さなラーメン屋に入った。夜遅い時間だが客席はいくつか埋まっており、ボクと主任さんは大将の目の前、カウンターのほぼ中央に並んで座った。
この店を選ぶのは初めてだったかもしれない。行列ができるほどの店でなし、ド深夜まで開いている甲州街道沿いの小さなラーメン屋なんて、どこも変わりばえしない。麺が茹でてあって、それが温かい状態で器に注いで供されさえすれば、御の字である。
数ヶ月に渡る営業活動の、ほぼ終焉となる夜だった。目玉が飛び出るほど大きな金額の受注というわけではなかったが、関わる人も多く、根回しや口利きにも気を遣い、順序を間違えたらすべて崩してまた始めからやり直さなければならないような、厄介なパズルを完成させるような毎日だった。
双方の偉いさんを一堂にそろえ、きっちり仁義をきった上で現場にもフォローを入れる。営業マンが夜の酒席でやらなければならないことをすべて果たし終えた。充実感で、ボクと主任さんはリラックスした気分で談笑しながらラーメンを待っていた。
その時である。
カウンターに並んで座っていた見ず知らずの中年の男が、いきなりなにごとか叫びながらボクに殴りかかってきたのだ。
「日本人だったら、ニホンゴ喋れぇ!」
あちらも酔客である。斜め前から身を乗り出して倒れこむようにこぶしを突き出した男は、そのまま凭れるようにボクの上に折り重なってきて、ふりかざした拳はだらしなく空を切った。
大声で怒鳴られてびっくりしたものの、まるでスローモーションのようなゆっくりの動きのおっさんである。本人はたぶんものすごい勢いでパンチをくり出したつもりなのだろうが、ゆらゆらと焦点の定まらないへなちょこフックだ。避けるのも受け止めるのもたやすい。
とはいえ、やはりいきなり近距離から攻撃されるととっさにどう対処していいかわからないものだ。ボクは男の腕を抑えるように攻撃をかわしたつもりになっていたが、体重をあずけられ、グダグダ・ズルズル、ふたりして縺れて押しあい、互いにたたらを踏んだ。
異常に気付いた主任さんがすぐ止めに入ってくれて、カウンターの中からラーメン屋のバイトの兄ちゃんも庇う手をサッと出してくれた。
ボクにダメージはない。殴られたけれどあたってはいない。びっくりしただけだ。
どちらかというと血の気の多い主任さんは、ボク以上に激怒してその酔いおっさんに怒鳴り返した。おっさんの連れがもうひとつ奥に座っていたのだが、すみませんすみませんと何度も謝りながらおっさんの肩を抱きかかえ、店の外に連れ出していった。
ラーメン屋の大将がおだやかにとりなしてくれ、サービスでチャーシューを盛ろうかとまで言ってくれた。実害があったわけでもなくさほど大食漢でもないので、チャーシューは断り、結果として騒動になってしまったことをこちらも謝り、椅子に座りなおして、出されたラーメンを啜り始めた。
日本人だったら、ニホンゴ喋れ。
殴られたことよりなにより、その怒声が衝撃的だった。
ボクがしゃべっていた言葉は、日本語ではなかったのだ。
関西の訛りは、ニホンゴやなかったんや。
主任さん曰く、その日はちょうど巨人が阪神に負けた日だったらしい。そういう間の悪いタイミングで東京の人が関西弁を聞くと、ムカムカ腹が立つらしい。なんやそれ。笑える。いや笑えへん。
そしてボクは、油断して弛緩するとしゃべりが関西弁に戻ってしまうことに気付かされた。もうすっかり標準語で話せるようになっていたと思っていたのに、気を抜くと関西のイントネーションが出てしまうのだ。そんな。まさか。知らなかった。
ラーメン屋を出て主任さんと別れ、タクシーに乗った。車中で眠ってしまわないように、いつもタクシーの運転手さんととりとめのない話をしながら家まで送ってもらう。
いやーびっくりしましたよ、日本人だったらニホンゴしゃべれって殴られちゃいました、阪神が負けてたんですってねぇ、野球に疎いもんでうっかり油断していましたよー。へぇー、お客さん関西の出身なんですか、でもいまずっとしゃべってらっしゃる言葉はちっとも訛ってませんね、わからないですよー。そうですかー、でもなんだか出ちゃってるみたいですねー、気を付けないといけませんよねー。あははー。
深夜2時を過ぎていた。
この日からボクは関西弁がしゃべれなくなったのだ。
関西弁をしゃべる男が、東京で「ニホンゴ喋れ」とけんかを売られたというのは、じつにおいしい笑い話である。ボクもこの体験をおもしろおかしく脚色して、あちこちで笑い話として披露してきた。
その一方で、自分の話す言葉がいつのまにか相手にとって耳障りな音声になってしまっている可能性をびくびく恐れてもいる。おおげさかもしれない。でもまったくゼロではない。
自分がニホンゴをしゃべっていないという恐怖は、無意識のうちに常についてまわっている。なにかを口に出すときに、いったん頭の中でニホンゴに翻訳して、それから口で音声にして出している。
話し始めがワンテンポ遅れているような気がする。当意即妙な返しができなくなってしまっているような不安感がある。イントネーションをまちがわないようゆっくり声を発する癖がついてしまっている……。
そんな状態で20年が過ぎた。
ボクが日常生活で関西弁をうっかり出してしまうことはほとんどない。しゃべろうと思えばしゃべれるのだが、いったん頭の中でニホンゴに翻訳した言葉を、もういちど関西弁に翻訳しなおさなければ口に出せなくなってしまっていて、ツーテンポ遅れてしまうようになっている。考えに考えて、やっと関西っぽい似非のイントネーションが出てくるようなありさまだ。そんな苦労をしてまでわざわざ関西弁をしゃべらなければならないということはない。
先月、息子とふたりで関西に住む実家の両親を訪ねた。関東で生まれ育った息子は、もちろん関西弁はしゃべれない。
ふたり並んで新幹線に座って、京都で乗り換える。しばらく電車に乗って走ってゆくと、窓の外にちょっと珍しい物が目に入った。
「おー、あれ。ちょっと見てみ、ほら、めっちゃおもろいで」
びっくりした。
息子もすぐ父親の言葉が変わったことに気づいた様子だが、吹き出したりせず、まるで自然なことであるかのようにふるまってくれた。
「なに? どうしたの?」
「ほら、あれや。なんや、めっちゃわろてるやん。カンペキに壊れてもーとるがな!」
なんだろうな、とても不思議だ。
どこにいってもどこまでいっても、自分じゃないみたいだ。