迷子になりたい!(前編)

ボクの頭の中にはGPSが入っているんじゃないかな。

 

新婚旅行でタイにいった。バンコクのきらびやかな仏教寺院を観光するのも楽しかったが、未舗装の泥道をえんえんと走った先にある田舎の村の石造りの古い遺跡を見るのがとても楽しかった。どこに行ってもまずガイドさんに方角を訊ねた。この寺院はどちらむきに建っているのか。正面は南をむいているのか、東をむいているのか。参道はどっちに伸びているのか。ガイドさんはすぐには答えられず、地図をぐるぐる回転させては困ったような表情をうかべ、あいまいな返事をした。3日目の朝には満面の笑みでボクに近づいてきて、方位磁石を貸してくれた。

 

どこにいても方角が気になる。どっちが北だろう・西はこっちか。太陽はどこだ・雨はどっちから降りはじめるか・どちらにむかえば目的地に着くのか。いま立っているその場から得られる情報を使って東西南北を推定し、確定し、つぎにどの方向へ進むのかを決める。

 

きちんと計ったことはないが、だいたいどこにいても方角を当てる自信はある。北を指さすことができる。もうずっと昔からこうだ。右に曲がれといわれるととたんにどっちに行けばいいのかわからなくなるのだけれど、南東に曲がれといわれると迷いなく進める。コンパスもGPS端末も要らない。いずれ渡り鳥に生まれ変わったらさぞ優秀な一羽として仲間から重宝されるだろう。

 

だから迷子になったことがない。記憶に残るたった一度の迷子体験は都会のデパートの中でだった。約40年前、ウルトラマンタロウに夢中だった3〜4歳のころ。田舎の生家から電車を乗り継いでつれてこられた巨大なデパート。ここで待っていろといわれた母親の言いつけを誤って解釈し、あちこち歩き回って母を探してしまった。行ったり来たりしていたら店員さんに不審がられ、迷子だとバレて追いかけ回され、衣料品売場のハンガーのすきまを走りぬけながら逃げ回ったことを覚えている。

 

残念ながらデパートの中にまでGPSの電波は届かなかったのだ。いや、まだ衛星が日本上空に配備されていなかったのかもしれない。軍事利用のみに限定されていて、民間利用は許可されていなかったのだろう。ましてや幼児の脳内にまでシグナルが届かなかったとしても不思議はない……。

 

いずれにせよ、いくら方向感覚にすぐれたボクでも屋内で迷子になるのは避けられなかった。しかし外に出れば迷いはしない。けっして。

 

迷子にならないという性質は、迷子になりたいという欲望を育てる。

 


 

先日、娘を連れて都内を移動していて、次にどこに行けばよいのかをこういうかたちで指示された。

「電車に乗って、進行方向にむかって左側のとびらが2回開いたら、その駅で降りて下さい」

3つめの駅で降りろといわれれば、あらかじめ路線図をみておけばなんという駅で降りるのかがわかる。しかしそれぞれの駅で左の扉が開くのか右の扉が開くのかをあらかじめ知りはしない。いざ電車に乗ると、とたんに不安になった。左と右がわからないという致命的な欠点もあったが、それはどっちが左なのかを娘に教えてもらってことなきを得た。だがやはり、降りるべき駅はどこなのかがわからない。

 

そもそも、どこで降りるのかわからずに電車に乗るということがこれまでいちどもなかった。目的地が決まっていれば、どこを通ってどの電車に乗ってどこで降りるのかをわかったうえで、電車に乗る。娘のみならず家族を連れて歩くときはなおさらだ。ボクがみんなを連れていく。目的の駅に着くまえに「次で降りるよ」と声をかける。どちらの階段からおりて、どちらの改札口から出て、どっちの方角にむかうか、すべてわかって行動している。

 

守るべき娘を連れているのに降りる駅がわからない状態で電車に乗っていることが、不安感をかきたてた。娘はむじゃきに「右のとびらがひらいた、あ、こんどは左があいたよ!」と数をかぞえている。ボクはといえば軽くパニクっていて、右が開いたときに降車した見ず知らずの乗客に「まちがってますよ! まだ降りる駅じゃないですよ!」と声をかけたくなるほどであった。けっきょく左2回の「2」すらうまくかぞえられなくて、扉が開いたのが1回目だったか2回目だったかわからなくなって、確かに2回開いたと言いはる娘に手を引かれて電車を降るはめになった。

 

娘はけろっとしている。ボクは不安と緊張で荒くなった息を整えながら、娘に「降りる駅がわからない状態で電車に乗っていて怖くないのか」と訊いてみたら、「それはいつもと変わらないことだし」と答えた。そのとおりだ。彼女は父親についてきて、どこで降りるのかなどいちいち意識せずに窓の外を眺めてぼんやりとしていて、降りろといわれれば電車から降りる。扉が2回開いたら降りるのもそれと同じことなのだ。勝手に不安になって勝手にパニックになっていたのは父ちゃんだけだった。

 

娘がいつものことだという「どこに行くかわからない状態」で電車に乗るという行為に、ボクは新鮮な興奮を覚えていた。

 


 

街歩きのツアーに参加したことがあった。

 

ガイドの大学の先生の案内で、歴史的な遺構や一般にはあまり知られていない痕跡などを堪能した。参加者は30人くらいで、みんなそれぞれに楽しく歩き、興味深げに話を聞いていた。2時間あまり歩きまわってツアーの内容はすべて終了し、それではスタートした集合地点に戻って解散しましょうということになった。あちこち寄り道しながら歩いてきたけれど、戻るときは近道してゆけば20分くらいで帰れる。まったく知らない街だというわけでなし、どう歩けば最短距離で戻れるのか頭の中でイメージしながら先生と参加者についていった。

 

ところが、だ。ガイドの先生は思いもかけないところで横断歩道を渡って道の反対側にいってしまった。ぞろぞろとついてゆく参加者たち。なんの疑問も感じていない。あわててボクもあとに続いて道路を横ぎる。でもこっちにいったらスタート地点に戻りづらくなるぞ。もうツアーは終了で帰るだけのはずだけど、ひょっとしたらおまけで、まだ訪れる場所があるのだろうか。

 

道を渡ったガイド先生はまっすぐ進み、とちゅうで左に直角にまがった。すこしいったさきでこんどは右に直角に曲がった。それを2回くりかえし、ようやく戻るべきスタート地点に到着した。これがボクなら、さっきの横断歩道は渡らずにそのまままっすぐ進み、ずっと先を1回左に曲がるだけで目的地に着く。そう歩いたほうがずっと早いし近いし楽なはずだ。100回歩いたら100回ともその道すじをたどるに違いない。

 

四角形ABCDの頂点Aと頂点Cの2点を結ぶ最短距離は対角線ACの直線である。しかし現実の街路はかならずしも2点をつらぬくまっすぐな道が備わっているわけではない。ではなるべく対角線に近い道すじを通ってゆくのが最適だろうか。より対角線に沿うように、細かくギザギザと曲がりながら進むのが先生の選んだ道である。いっけん距離は短くなったようにおもわれるが、まがり角ごとに折れて歩くのと、ひたすらまっすぐ進んで1回しか曲がらないのと、どっちが効率がいいのだろう。歩いてゆくなら後者のほうが早くて楽だとボクはおもう。

 

でもガイド先生は最短距離をいきたくてこの道を選んだのではなかろう。この道をとおってゆけばおもしろいものがあるからそれを見せようとおもって歩いたわけでもなさそうだ。ただこの道を選択するのが先生にとって自然だったというだけのことで、それはボクにとっては奇妙な選択だった、ということだ。

 

これはとてもおもしろい体験だった。なんならこの2時間あまりのツアーで得たたくさんの雑学知識よりもずっとおもしろかった。自分は人の後ろについて歩くことがほとんどないことにも気づかされた。自分がいきたいところにゆくのに、道を選ぶ主体はずっと自分自身だったのだ。

 

「他人が選んだ道を後ろからついていくのはおもしろい」。この奇妙な酩酊感にボクは魅了された。

 


 

以上、ふたつの体験(降りる駅を知らずに電車に乗ること、人に先導されて道を歩くこと)を経て、ボクはようやく自分の中のGPSが悪さをしていることに気づいた。つまり、どこにいるか常にわかる、という状態があまりにふつうすぎて、道に迷う機会を奪ってしまっていることに気づいたのだ。優秀な渡り鳥なんかに生まれ変わっていては人生大損している。

 

迷子になりたい。生まれて初めてつよく感じた。

 

(後編へ続く)

http://mizio-s.hatenablog.com/entry/maigo02